慢性疲労 - 被害者
ティムは慢性疲労という言葉を漠然と聞いていました、しかし皆と同じように、“慢性疲労症候群”は骨の折れる仕事をしたくない人達のうまい口実と思っていたので軽蔑していました。知性的で意欲的でもあり、大学選考は数学、国でも指折りのファイナンシャル・アドバイザー会社に幸運に採用された彼にとって仕事は面白く又チャレンジであり、入社一年で最初の昇進を獲得するエリートでした。
けれども、ある日ティムは何となく自分自身の異常に気づいたのです。仕事も終わりに近い時間、一日の終わりに多少の疲れは感じていたもののその時は活力が体から抜け出しなんの楽しみも感じませんでした。そればかりか就寝時間も普段より早くなってきていたのです。眠気がするだけでなく寝付きも悪くなり起きた時は寝る前と同じように疲労感がありました。又他に奇妙な徴候も表れはじめました。記憶力が前のようではなく集中力も悪くなったことをボスに指摘された時点で彼は医師に相談する決心をしたのです。
慢性疲労 - 医師
ティムの話を聞いた医師は、慢性疲労症候群の徴候をリストにして、心当たりのある事項の確認を彼に求めました: -
絶えず頭痛がする
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寝起に爽快感がない
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記憶が正常に機能しない
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集中力が正常に機能しない
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関節の痛み
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微熱がある
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首又は脇の下が腫ている、又は敏感である
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筋肉にうずくような痛みがある
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継続して喉に一寸した痛みがある
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筋肉に力がない
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エクササイズの後気分が悪い
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極めて軽度の労働で疲労を通り越した疲れを感じる(慢性疲労)
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引き続く極度の疲労の結果自分自身は病気かなっと感じているが、症状がつかめない。
リストに書き出された徴候は、既にティム自身が体験していることでした。
診断 - 慢性疲労症候群
慢性疲労症候群 - 新しい病害
最近になって知られてきた不可解な病気、慢性疲労症候群につけられたほかの名前は“ニュープレイグ”と呼ばれ長い間存在はしていたものの悪性度の低い他の病気として判断されていたと医師また研究者の間で推定されています。しかしながら、1980年代には犠牲者が突然急増したため、医療界の間では真剣に考慮せざるを得なくなりました、慢性疲労症候群、又の名を慢性疲労(抗し難い疲労)は大きく圧倒される症候群として知られるようになりました。被害者によってその強度は違ってきます。その人によってはあまり強い徴候がないために対処法が比較的簡単ですが、又一方では外出困難、仕事が出来ない、また病気の影響で記憶力と集中力と急に来る疲れで活力が抜けてしまう。ある患者はサプリメント(ビタミン、鉄分等)が助けになり、又ある患者にとっては全く助けにならない場合もあります。非常に多くの患者は深刻なディプレッションに陥っていますが残念なことに現在のところ治療法は発見されていません。
慢性疲労 - ある人の話
私が最初に慢性疲労症候群と診断されたのは2001年。仕事も楽しかったので人生を満喫していました。そしてこの活力のなくなる病気の為に突然障害者となったのです。
記憶力と集中力が悪くなってきたその日直ぐ仕事を終らせ帰宅しました。問題改善のために一生懸命努力してみましたが悪くなる一方に思われました。こんな恐ろしいことを神が私に許されたこと事態理解しがたい思いです。家に引きこもりベットに横になっているか非常に気分が悪いか又はただじっと座っているだけです、まさに私は絶望の淵まで追い詰められた状態でした。その後筋肉と関節と特に手足にうずくような痛みが起き始めたのです。既にただの慢性的疲労症候群ではなく“もっと大きな次の段階”筋痛性脳脊髄炎(又はM.E.)であることは明確でした。
悲惨と欲求不満から助けようのない悲惨と言う谷底に突き落とされた私の苦しみは完全なものとなっていました。このような時に神の介入があったのです。神がその御手を苦しんでいる私に触れて下さり傍にいて憂い又愛してくださっていることを自覚し始めました。“あなたは行き詰まっているのではなく目的地に向って歩いているのだよ”神は優しく教えて下さいました。悲惨と欲求不満と止むことのない絶望との戦いは、実は私が神に信頼して寄り頼む強い信仰の力を与えて下さる為の神の方法だったのです。更にこの体験を通して私にはほんの少し程しかなかった忍耐力を養う学びの時も与えて下さったのです。私は聖書を定期的に読むようになり、そしてある非常に重要なことを発見したのです。
忍耐に関して私が読んだ箇所は、“神の御旨を行なって約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である”(ヘブル書10:36)。忍耐に関して、欲求不満(イライラ)と闘う最大の戦闘具は、“だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい”(ヤコブ書1:4)。
驚くべき神の約束である武具を身につけて苦しい道程を行く時も、主は近くにいて私と一緒に歩いて下さいます。そしてついに目的地に到着したその時、私の肉体は見事に癒され喜びに満たされるのです。エペソ書3:19−20が私の全ての思いを表現しています:“神に満ちているすべてのものをもって、あなた方が満たされるようにと祈る。どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに超えてかなえて下さることができるかたに…”
神の愛についてもっと学んでみましょう!
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