自分の人生が大嫌い‐どん底
どん底に落ちていく生活は飲酒と薬物にまで及び、気分が悪く失神する夜が続きこんな自分が大嫌いでした。生きるのに何の目的もなく、4年間の大学生活は何の益も残らず何の為にもならず、ただ私の自己価値が奈落の底に落ちてしまっただけでした。
ある日、バーボン酒をそのまま飲むと何千もの脳細胞が死んでしまう、と友人に忠告されました。どうせ殆んど死んだも同然です。しかし彼の言葉は私の混乱を押しのけて、そうだ、この状態から抜け出さなければいけないと言う決断に至ったのです。
どん底に落ちてしまった一月後、姉の家に住み込んだ私には何の願望もなく全く生きる目的もありませんでした。恐くて自殺はできない‐自殺もできないなんて、とまた思い悩み泣き明かす日々を過ごしていました。
自分の人生が大嫌い‐絶望
姉に勧められてクリスチャン・カウンセラーと分かっていたものの一応その人に会う決断をしました。教会に行く家庭に育ってもクルスチャンとはあまり関係無く、返ってクリスチャンは偽善者の集まりだと思っていました。しかし絶望だけが残された私です。カウンセラーは、神はあなたを愛していると言いました、そんなことは絶対に信じません。またカウンセラーは、あなたは罪びとであるとも言いました。“そんなことは前から分かってる!”私はカウンセラーを怒鳴りつけていました。
神が何年も前に私の命を取り去らなかったことが不思議でした。カウンセラーは続けて、神はあなたの人生に計画があるとも言いました。努力することに疲れ果て、将来の希望などなく、どん底にいるのに、その日私は、もしこの滅茶苦茶な人生が神の言う人生なら、神よ、私の人生をあなたに返すからどうにでもしてくれ、神さま頑張ってね!と叫ぶと同時に今までずっと誰かに愛されたかったのに、私を拒絶しないでこの人生を何とかしてくれればよいのに、私は大胆に反抗的に神に叫んでいました。私の人生は何時も怒りと反抗的であることが特徴で、不幸なことにこの特徴は一夜にして消えてなくなることはありませんでした。しかし神はこの怒りに満ちた、混乱した人間に愛を注げ続けて下さったのです。
自分の人生が大嫌い‐もっと大切な容認
自己中心の人生。どうして人は私を愛してくれないの?誰が私を愛してくれるの?何をしたら私は愛されるの?なぜ私は平安と愛を見出せないのだろう?その答えを:飲酒、セックス、そして麻薬に求め、そしてこれ等の答えに私は殺される寸前だったのです。しかし神が私の心に触れて下さった時、今までの疑問に対しての答えを発見しました。神に求めた時、神は愛と平安を私の人生に与えて下さったのです。
ばかで愚かだったと思い込んでいましたが、実は私はとても知的であったのだと分かりました。まだ愚かなことをするかも知れません、しかし主が教えて下さったことは、“だからといってあなたは愚か者ではありません”。私は完全ではありません。時として誰か私を愛してくれる人はいるのかしらという疑いがわくときもあります。私はやはり愚か者だと思うときもあります。また過去の生活を思い出すと羞恥心で圧倒されてしまいます。しかし、神の言葉に触れた時、主は私をその愛で満たすために、何時も私と一緒にいて下さいました。
捜し求めていたもの、素晴らしい喜びと平安を神が私に下さってから数年になります。神の愛は私のため、神は私を祝福したいと願っている、そして実際に私を通して他の人々に愛を分け与えることができる。以前はただ読んでいたに過ぎなかった御言葉を用いて私の人生を導いて下さいました。
反抗的な子を受け入れ、もう駄目だとあきらめていた私を見捨てずに愛し続けて下さった主の御名を賛美します。しかし、何といっても主の御名を褒め称えることは、主を知るために私を解放して下さり、世界の創造されるずっと前から私の為に目的と計画を備えて下さっていたことです。ヨハネの福音書8:36では“だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。”この言葉は私にとって現実となりました、主の御名を褒め称えます!
あなたは自分の人生が嫌ですか?あなたは過ちと、拒絶感と、深い罪責感から解放されたいと願っていますか?神はあなたに許しを提供しています。受け入れたいですか?
神の許しをどのように体験するかを発見しましょう。